風に乗った花の匂いが沈丁花だと分かること

振り返ると、小さい頃から本が好きだった。


周囲の友達も本を読む子が多かったけれど、そのなかでも一番量を読んでいたと思うし、単純に好きだった。
読書活性化のためにクラスで行われていた、読んだ本のページ数を競う活動。間違いなく一位だったし、小学校の図書館は自分の主戦上とばかりに何度も通っていた。
先生や親にも一位だったことを誉められた。
やはりクラス一位というのは自信に繋がり、私の強みはここなのだと更に鼻の穴を膨らませたのだ。
幸い、家にもたくさんの本があり、自分の読めそうな本や兄弟が読んでいたものは片っ端から手をつけたものだ。
このような気持ちはわりと中学まで続いた。
中学に上がると、同じように本好きな友達と面白かった本を貸し借りした。当時も私は一番本を愛していたし愛されていたと感じた。そうじゃなかったらこんなに図書館が落ち着くと思えないし、他の子はあんまり読書に興味なんてなかったし。

前振りが長くなってしまったけど、このブログは気づいてしまった話である。

インターネットもよく知らず、人間関係も学校と家族だけで完結していた私は結局知らなかっただけなのだ。

高校に上がって携帯をもち、インターネットに深く関わる。大学に上がってぐんと人間関係が広くなる。
愕然とした。

私より間違いなく本が好きな人はごまんといて、なんなら社会の「本好き」というコミュニティに属せないのではないか、というほどのレベルだった。自分は。
私は年が上がるにつれて他にもいろんなことに興味を持ち、どんどん本から離れていった。
けれど本が好きな人はずっと本を持ち歩いていろんなところに顔を出すのだ。そして、習慣のように本を広げる。
こんなの、愛されてるじゃんか。私は愛してなかっただけじゃないか。
知って、気づく。
悲しくなってしまう。

振り返ると、小さい頃から本が好きだった私は、ただの特徴がない人間になっていた。

知識があることとないこと、どちらが幸せなんだろう。
最近はそれすら分からなくなってきてしまった。
分かったら何か残そうと思う。
しかし、分かるにはどうせ知識が必要になるのだが。